(執筆日:1998年02月21日)
「おはよう。よく眠れたかい?」
客室から出ると、弥帋がすでに起きていた。寝間着姿など想像もつかないようなパリッとした恰好で、いつの間に用意したのかわからない朝食を食べていた。自炊がとても似合わない。実はメイドでも隠しているんじゃなかろうかと勘繰りたくなってくる。
「……どうも」
高嶺はロクに眠れず、頭がぼーっとしていた。昨夜の出来事が、夢か何かのように遠く感じる。あれだけの恐怖を味わったのに、時間とともに薄れていくのが不思議だった。
「もうメシ、食ってんですか」
「今日は父に呼ばれていてね。来年大学を卒業するから、時期社長としての心得を時々学んでいるんだよ。すぐに跡を継ぐわけではないんだが、早いうちから時期社長としての自覚を持った方がいいと言われていてね」
「……時期社長」
高嶺は唖然として弥帋を見た。確かに風体にしても言葉遣いにしても、時期社長として似合わなくもない。あとは年さえ取れば、それなりの雰囲気と重さが出てくるかもしれない。
「すごい人だったんすね……」
寝不足でぼーっとした頭をぐしゃぐしゃとかきながら、弥帋の向かい側の席に座る。
「なんか、ふたり分あるように見えるんですけど」
「ふたり分だよ。いくらなんでも空腹で放り出す気はないのでね」
「食っていいなら、遠慮なく食いますよ」
「どうぞ。もともときみの分のつもりで作ったんだから」
今頃、和端はどうしてるだろうと思いながら、高嶺は箸をつけた。高嶺の不在に気づいているだろうか。時計を見ると、まだ朝の七時半だった。
(じゃあまだ、寝てるな)
急いで帰れば知られずに済む。
夜中に高嶺が体験した事件については、和端には喋らないつもりだった。
言って信じてもらえるかどうかわからない話だったし、高嶺自身、さっさと忘れたかったからだ。
(どうせこんなこと、二度はねぇだろ)
殀愧という生き物がいったい何であれ、深夜に外をうろつかなければ遭遇することはないのだ。
(和端にもよーく言いきかせとかなきゃな。夜はなるべく外出んなって)
朝食は案外うまかった。寝不足で体調が優れているわけでもないのに、結構食べられる。互いに口を開かず黙々と朝食を進めて、ふと高嶺は気づいた。
「あの……」
「ん?」
「ここ、いったいどこなんですか?」
今いる場所がどこだかわからなければ、帰るに帰れない。走って着いた場所だから、そう遠くはないはずだと思うのだが。
弥帋はにっこりと笑って言った。
「心配しなくても、車で送ってあげるよ」
「はあ……」
相手の正体がまったくわからないままなのに、妙な親切をされると気味が悪い。だが高嶺はそんなことは口に出さずに、使えるもんは使おうと考えた。
車には詳しくない高嶺には、それがどうやら高級車らしいということだけわかった。左ハンドルだから外国車であるらしい。ゆったりとした助手席に座って家まで送られた高嶺は、
(社長の息子ってのはみんなこんななのかね)
と、ため息まじりに考えていた。
マンションの前に着くと、「あああっ!」と叫びながら和端が走り寄ってきた。高嶺は思わず眉をしかめる。
(起きてやがったのか)
これでいろいろと説明しなくてはならない手間が増えた。
和端は、車から出てきた高嶺に向かって何か言おうとする前に、運転席にいる弥帋に気がついた。そこでまた、大声をあげる。
「ああああっ!」
「……なんなんだよ、てめえは」
「この人、こないだの人だよっ。ホラっ、俺が前に言ってたじゃんっ。擦れ違った綺麗な人が、振り返った瞬間にいなかったって! あれだよあれ! この人だよっ」
「……はぁ?」
そう言われてみれば、そんな話を聞いた覚えがある。思わず弥帋の方を見ると、相変わらず何を考えているのかわからない人当たりのいい微笑などを浮かべている。
「ああ、この間ぶつかりそうになったきみか。どうも、久しぶりだね」
このにこやかさが曲者に思えてならないのだ、高嶺は。
和端が運転席の弥帋に近づいた。
「すごく訊きたかったんですけどぉっ、なんであの時すぐ消えちゃってたんですかっ? 俺すごく気になって気になって、夜寝る時まで考えちゃったんですけどっ」
「消えた? 僕が? たぶん角を曲がったんじゃないのかな」
「だから俺がそう言っただろ、バカ」
高嶺の手の甲が和端の後頭部に当たった。和端がむくれて振り返る。
「えー? でもだってさぁ、曲がり角なんてなかったんだよー確かー。俺の記憶違いなんかじゃないよー、絶対」
「いいだろ、もうそんなの。帰るぞ」
「だいたい高嶺っ、なんでこの人の車に乗ってんだよ。朝起きたらいないしっ。どこ行ってたんだよ、俺は高嶺をそんな不良に育てた覚えはありませんよっ」
「おまえに育てられた記憶はさらさらねえな」
面倒になってきて、高嶺はさっさとひとりでマンションに向かって歩いた。
和端が慌てて弥帋に向かって頭をさげて、急いで高嶺の後を追ってきた。
「だいたいあの人、誰?」
「……確か、弥帋っつったっけ」
「なんで知り合いなの、高嶺が?」
「知り合いじゃねえよ。偶然助けられたんだよ」
「え?」
「あ……」
しまった、と高嶺が思った時には既に遅く、部屋に戻るなりすべてを説明せねばならない羽目へと陥った。
一部始終を話して聞かせ、終わった時には和端が難しい顔で高嶺を見据えていた。
「……高嶺、変な冗談だったら承知しないよ?」
そうたやすく信じてもらえるとは思っていなかった。
面倒なので、高嶺はそれ以上言葉を足さず、あとの判断はすべて和端に任せてしまった。どうせもともと、話すつもりはなかったのだ。
「信じないなら信じないで、いいよ、べつに」
時計を見て、そろそろバイトに行かなきゃな、と思い、高嶺は椅子から立ち上がる。
「おまえ大学は?」
「今日、休校」
「あっそ。じゃあ今日の昼飯は外食か店屋物でも取れ」
「うん、わかった」
「あと、暇ならたまってる洗濯物洗ってくれ。全自動だからおまえにも使えるだろ。それからおまえの部屋、あれ少しどうにかしろ。俺は面倒見きれねえ」
「わかったよ、もう」
せっかくの休校なのになぁー、とぼやく和端をひと睨みすると、和端が慌てて愛想笑いをしてみせた。
「わかったわかった、ちゃんとやるって」
高嶺は居間から自分の部屋へ行き、着替えて支度を整えた。バイト先は近所なので、歩いてすぐに着く。
「いってらっしゃーい」
高嶺を見送った和端は、深い深い息をついて、しゃーないか、と腹をくくった。
洗濯物の量はさほど多いわけでもない。さすが家事の鬼だけあって、高嶺はマメだった。全自動なのでたいしてやることはなく、和端は自分の部屋へと向かった。
確かに散らかり放題である。高嶺が眉をしかめるのもよくわかる。だがしかし、どこから手をつけたらいいのか和端にはわからない。
「端から適当にやるしかないかなー?」
と、慣れない掃除をはじめた。
二時間ほど経った頃、居間の方で何やら音がするので、和端は自分の部屋から出た。実際、音が聞こえたのは居間の窓からだった。
掃除をはじめたはいいが、途中でいろいろな雑誌やマンガが発見され、和端は夢中になって読んでいた。しかし、居間から音が聞こえるので不審に思って出てきたのだ。
「なんだよ?」
居間には大きな窓がある。昼間はカーテンをよけているので、中からも外からも丸見えだった。けれど、階が六階なので、ふたりとも気にしたことはない。
その六階の窓に。
人が立っていた。
音の正体は、その人物が窓を叩いていた音だった。
和端はぎょっとした。六階のベランダに見知らぬ人間が立って、窓をノックしていたからだ。その人物は、人と呼ぶには妙な美しさを持ち、同時に悪意を持ちあわせていた。さながら、悪魔と形容するにふさわしいような雰囲気がにじみ出ている。
その人物は、和端の顔を見るとニヤリと笑った。
ぞっと和端の全身に鳥肌が立つ。
凍りついたように、和端は窓の外に立つ人物を凝視する。
「デルタ」
その人物は男とも女とも形容できない声で、そう言った。和端には意味がわからなかった。
「見つけたぞ」
ぞくっとして和端の肩が揺れる。
「ラムダとシグマも見つけた。仲間はそれだけか? 他にもいるのではないのか? ラーヴァよ、転送されたのはそれだけではあるまい? ……ふふ、私を覚えておらぬのか? かつての仲間を。遥か昔、おまえと同じ生き物だった私を」
「……な……?」
意味がさっぱりわからない。
「今のおまえたちは我らの力をつけるための餌。我らも仲間を増やし、おまえたちをずっと探していた。この世界には餌が溢れているな。能力の強さではラーヴァには及ばぬが」
その人物が掌を窓にかざすと、ガラスが勢いよく割れて粉々に砕け散った。和端は思わずあとずさったが、どう逃げればいいのか思いつかなかった。
「な……なんだよ、出てけよ。人のうちだぞ。だいたい人ん家の窓割りやがって。なんなんだよ、あんたっ」
迫ってくる相手に、怖れながら後ろに下がりつつも和端は文句を言い忘れなかった。この常識外れな相手は、顔は美形であるが、雰囲気が人間離れしていて異様だ。服装は、いつでも日常に戻れるようなラフなもの。
その人物が、ニイッと笑った。
「すぐに殺しはしない。できるものならとっとくにやっていた。おまえたちを見つけたのは、今ではないからな。数少ない貴重な餌だ。そうたやすく喰らうこともできぬ」
和端に向かって腕が上がる。
「うわあっ」
その手が和端に触れそうになった瞬間、両者の間で火花がはじけた。驚いたように相手が後ろへさがる。火花はまるで和端を守るように、いつまでもチリチリとはじけ続けている。
「……そのような力が残っていたか」
呟くと、その人物は身をひるがえして、窓から外へと出て行った。
部屋がシンと静まり返る。
「……」
和端は何が起こったのかわからないまま、深く息をついた。居間の窓は粉々だ。高嶺が帰ってくる前に、なんとかしなきゃと考えた。
「ガラス屋さんに電話かけなきゃ……」
寒気がした。相手の言っている意味はわからなかったが、少なくとも自分がターゲットとにされたことだけはわかる。決して無差別ではなく、明かに和端を狙っていたのだ。だが、おまえたち、という呼び方が気になった。相手は和端だけでなく、他の誰かも含めて言っている。
「……まさかね」
和端は思わず高嶺の部屋を見やったが、ゆるゆると力なく左右に首を振った。
つづく
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