花嫁は魔王の甘い蜜に酔わされる 5

(執筆日:2013年7月19日)

 リリアの目の前で立ち止まると、魔王はわずかに手を振りかざした。
 すると、リリアの手の中にあった御者のマントが、たちまち霧のように消えてしまった。
 見慣れない状況に動揺する彼女を、魔王は楽しそうに眺め、おもむろに片手を持ち上げた。指先がリリアの顎にかかる。軽く持ち上げられたリリアは必然的に上向くことになり、二人は間近で見つめ合う形になった。
 魔王の整った顔が間近に迫り、リリアはたちまち頬を赤らめる。
 すでに社交界デビューしていた彼女は、ダンスなどで初対面の殿方と接触する経験はあったものの、まだ数回ほどなので男性自体に慣れてはいない。しかも魔王が想像を超えた美青年だったことも、彼女を緊張させる一因になっていた。必要以上に意識はするまいと思っていても、見つめられていてはそうもいかない。
 しげしげと観察するように彼女を眺めていた魔王は、目的を果たした様子で指を離した。解放されたリリアは、即座にホッとする。
「言い忘れていたが、魔王と呼ばれるのは本意ではない。私にも名前はある。ファルザスだ」
「……ファルザス様……」
「様はいらぬ。ファルザスでいい」
「わかりました。ファルザス」
 硬い表情でリリアが返事をすると、ファルザスが面白いものでも見たように笑った。
「夫婦になる間柄だと言うのに、随分よそよそしい」
「初対面ですから」
「そなたはそうかもしれないが、私は違う」
 リリアが驚き目を見開いた。
「顔も知らぬ女を妻にするほど私は無謀ではない。そして気に入らない女をめとるような趣味もない」
「いったいどこで……?」
「どこでだろうな。それより、そなたに紹介したい者がいる。ミン」
 ファルザスが名を呼ぶと、片隅の部屋から一人の少女が現れた。突然消えたり現れたりせずに、ごく普通にドアを開けて出てきた。急ぐように歩き、ファルザスの横へと立つ。使用人のような衣装を身にまとっていた。
「彼女の名はミン。そなたの身のまわりの世話が主な仕事だ」
「初めまして、リリア様。ミンと申します。着替えや湯浴みなど、何でも申しつけくださいませ」
 ミンはリリアよりも少し年下のようだった。人間とさほど変わらぬ外見。柔らかそうな栗色のくせ毛を、首の後ろでひとつに束ねている。肌は白く、顔の造形も整っていた。
 彼女を見て、リリアはようやく魔族と人間との違いを発見した。顔の左右についている、耳の上部が尖っている。人と変わらぬように見えるが、ミンも魔族なのだろう。
「リリアです。よろしくね。ここは王家とは違うのだから、そんなにかしこまらずに肩の力を抜いて。楽しく過ごしましょう」
 年下の少女と出会ったことで、リリアの緊張がだいぶほぐれた。ここで暮らして行ける自信が少し湧いてきた。
「では、ミンに部屋を案内させる。湯浴みで人間界の垢と埃を落とし、私が用意したドレスを着て、これから行われる食事会に参加するんだ」
 ファルザスはそう言い残すと、まるで瞬間移動のように一瞬で姿を消した。
 目を丸くするリリアを、ミンが促した。
「ではお部屋へまいりましょう、リリア様」
「え、ええ……」
 これぐらいで驚いていたら、きっと心臓がいくつあっても足りないだろう。早く慣れなくてはと、リリアは内心で強く自分に言い聞かせた。

つづく