(執筆日:1998年01月02日)
夜の街にはネオンがまたたいている。面通りには大勢の人間たちが歩いていた。恋人同士もいれば、会社仲間だったり、大学やいろんなグループで集まっている人々もいる。飲んだり騒いだりカラオケしたりと、それぞれがそれぞれの過ごし方をしている。
賑やかで明るくて、どこか危険な香りも含んでいる夜の街。
裏通りはひっそりとしていた。夜になると賑やかな裏通りもあったが、そこだけは違っていた。街灯もほとんどなく、店もない。
そんな中を、ひとりのサラリーマン風な男が歩いていた。
帰り道であるらしい。
足取りがいくらか酔っている。
街灯のほとんどない暗い道を、何の疑いもなく歩いていた。
その後ろから、なにかが地面を這っていた。一定の距離を保って。
ゼリー状の巨大な塊。肉の塊のような不気味な色彩は、暗闇のせいで目立たない。
それはどうやら生きているらしく、地面を這いずっては道を進んでいく。
音はあまり立てない。
ぶよぶよとした塊は、獲物を狙っていた。
人通りが他になく、車も走らない。塊は意を決したように、突然加速した。ゼリー状であることを忘れそうなほど俊敏な動きだった。ざわざわと進み、たちまち男の背後まで迫る。男は微塵も気がつかなかった。
ふと、足をとられた。
男は怪訝そうに足元を見た。何かが絡みついている。それが何か見極めようとして、目で追った。直後、声にならない悲鳴があがった。
塊の行動は速かった。ぐわっと全身が伸びて、男の頭上から降りかかった。あっという間にゼリーが全身を包み込んでしまうと、あとは溶かしていくばかりだった。靴も服も髪も骨も、すべて溶かしつくしてしまう。勢いで放り出された鞄だけが、地面の上にポツンと残った。
食欲の満たされたゼリー状の塊は、満足げに道を進んで行った。それは常に、人目につかないように行動していた。そういう命令があるからだった。
塊は、ふと疑問を覚えた。
食欲は満たされたのだが、姿が変わらない。
変形するはずなのに。
思考力の低いわずかな脳でそれだけを思ったが、しだいに忘れた。
「最近さあ、行方不明になる人、ほんっと多いよねー」
新聞を床に広げて寝そべったまま、和端(かずは)が言った。頬づえをついて、真剣に新聞を眺めている。その光景を眺めながら、高嶺(たかね)はうざったそうに顔を歪めた。
「てめえ、少しは手伝えよ。人がこんなに頑張って働いてるっつーのに」
「えー? 俺だってこんなに真剣に勉強してんだよー。大学生だからさー、新聞の記事も真面目に読まないとね。高嶺は居候なんだから、それくらいしてくれて当然じゃん。得意分野なんだから、問題ない問題ない」
新聞から目も離そうとせず、和端はヒラヒラと掌を振った。
テーブルに朝食を並べていた高嶺は、この言葉でキレそうになったが、必死になってこらえた。居候なのは事実である。しかも自分から飛び込んできたのだ。
「新聞読むなら読むで、座って読めよな。行儀悪いったらないぜ」
「いいのよ、他には誰もいないんだからさ。高嶺くんにだったら、今さらどんな姿見せようと構わないでしょー?」
「目障りだ」
嫌味たっぷり込めて高嶺は言ったが、和端は少しも気にならないようだった。律儀に朝食を作り、並べていた高嶺は、全部捨ててひっくり返したい衝動にかられたが、そんなもったいないことはできなかった。
「なんでもいいから、早く食え。冷めるだろーが」
「はーい、待ってましたーっ。わーい、高嶺くんの朝ごはーんっ」
小学生のようなノリで食卓に飛び込んできた和端を、憎たらしそうに高嶺は睨んだが、やはり相手は意に介さなかった。
「高嶺のごはんってホントうまいんだよね。すごいことだよ、これは。いい奥さんになれるよねー」
「男だ俺は」
和端の言葉は嫌味なのか本気なのかの判断がつかない。こめかみをピクピクさせながら、高嶺は朝食を摂った。
和端の言葉はなおも減らない。
「えー、だって高嶺は男のくせに美人だよ? だから昔っから女の子にモテまくってんじゃん。それなのに、ちゃんと特定の彼女作らないなんてどうかしてるよね。って言うか、高嶺は浮気者だから、女の子の方が離れちゃうのか」
「うるせーよ、おまえ。食べる時は黙れ」
高嶺に注意されて、和端は口をつぐんだ。
高嶺は断じて浮気者ではない。モテるのは事実だが、好みに合う女性と出会えないのだ。だから付き合う相手は、たいてい女性の方から告白してくるパターンばかりだ。それでなんとなく付き合ってみても、しっくりくることがない。高嶺の方から連絡することはないので、自然消滅へと流れていくことが多かった。
浮気者と言われてしまうのにも理由はあった。現在付き合っている相手がいても、別の女性に告白されると簡単についていってしまうのだ。高嶺自身は相手に対する操などまったくないため、浮気をした気はさらさらない。それ以前に、付き合っているという自覚がないのだ。結局、相手に対する情がないだけである。
男としてこの上ない魅力を持っているにもかかわらず、高嶺は炊事洗濯掃除が得意だった。意識しなくても気がつけば行動しており、いつの間にか和端のおさんどんになっていた。当初、同居するにあたって分担したはずの約束はどこへやら。
「食い終わったら、出てけ。バイトだろ」
「わかってるよ、もう。うっさいなあ高嶺は。やだねー口うるさい男ってさ」
食べ終わるなり立ち上がり、和端は出かける仕度を始めた。
和端が家から出て行くと、急に静かになった。高嶺はせいせいしたとでも言わんばかりに、掃除を始める。手始めには、和端が散らかしたまま放っておいた新聞をたたむことからだ。
「これくらい、片付けてけよな。ったくホントに散らかし魔」
文句を言いつつも、反射的に片付けてしまう。根っからの几帳面である。
新聞をたたみながら、ふと記事が目に入った。
和端の言葉を思い出す。
──最近さあ、行方不明になる人、ほんっと多いよねー。
「……」
記事の中には、今年、行方不明になった人の数が記されてあった。具体的に誰、とは書かれていない。テレビのニュースでもよく取り上げられている事件だ。老若男女いっさい関係なく、忽然と人がいなくなる。あまりにもその数が異常なので、今年最大の事件と言ってもよかった。
「……物騒な世の中だな」
それでも不思議なことに、自分だけは絶対に大丈夫だと思ってしまうものだ。
人間なんて、そんなもんである。
新聞を折り畳んで椅子の上に放り、高嶺は食器を片付けた。それから掃除機を取り出す。掃除はなかば趣味の領域なので、わずらわしいとかそういったものはなかった。洗濯も炊事もだ。和端ほどの無精者から見れば、かなりの几帳面者である。
掃除機をかけ終わり、洗濯をしていた時に、ふと記憶がくすぐられた。昔、現役高校生の頃に、校内で行方不明事件が起こったことがあった。その時に行方知れずになった生徒は、結局見つかることなく、現在にいたっている。
同じ時期、他にも何かあったような気がするのだが、高嶺は思い出すことができなかった。
つづく
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